さてさて、昨日に引き続きヴァザーリの回廊ツアーのお話です。
ツアーはウフィツィ美術館の中、普段は閉じられている大きな木製の扉の前に、朝九時集合でした。
名前の確認をして、いざ、扉の中へ!
入ってすぐの階段を下りると、意外に広い空間に出ます。
そこの絵画はぼろぼろに、手の施しようがないほど傷んでいるんですが・・・これらは1993年5月27日、マフィアによって爆弾が仕掛けられた時の生々しい傷跡なんだとか。
余談ですがついでに書いてしまおう。
この爆弾事件は、フィレンツェ人にとって決して忘れることのできない、忘れてはならない痛ましい事件の一つ。
5人の死者を出したこの事件への追悼のため、ウフィツィ美術館裏手の細道にひっそりと、一本のオリーブの木が植えられていることは意外と知られていない事実です。
ヴァザーリの回廊ツアーの出発点であるこの地点にある窓からも、そのオリーブの木を見ることができました。
そこからツアーは一気に細い廊下へと進んでいきます。
回廊の壁にはぎっしりと、絵画コレクションが掛けられています。
歴史的な大作や名作も多いんですが、これらはまだ一般公開の予定が立っていないものです。
残念ながら回廊の中の撮影は禁止でしたので、写真なくてごめんなさい。
窓から外を写すことだけOKだったので、今回は窓の写真ばかりです(笑)
ガイドさんは一応幾つかの絵画について立ち止まって説明してくれるんですが、とにかく駆け足!早い!
とてもゆっくり見て回れるものではありませんでした。
そしていざ、ポンテ・ヴェッキォの上へ。
いつもの見慣れたお店たちを、上から見下ろすことができます。
おぉー。結構はっきり見えるもんですね!
このポンテ・ヴェッキオの上は、メディチ家が存在していた当時も市民たちの行き来で活気に溢れたところでした。
メディチ家の面々はこの上を歩き、小窓から外を窺い、そして直接耳にすることは普通できないような彼らの生の声に耳を傾けていたようです。
「コジモとかマジうざいよねー」なんて、悪口が聞こえた時にはやっぱり落ち込んだりしたのかしら・・・?
ついでのついで、小ネタをもう一つ!
ヴァザーリの回廊がフェルディナンド一世の結婚を記念して作られたという話は昨日しました。
彼はこの回廊からポンテ・ヴェッキォの上を歩いていて、ある重大なことに気付きます。
それは・・・
「なんか、臭くね??」ということ(苦笑)
当時この橋の上のお店は肉屋ばかりでした。
肉をさばいて、血やら何やら河に・・・たぶん垂れ流しだったんだと思います。
そんな非衛生的なことをしていたので、当然、異臭が漂っていました。
「これじゃいかん!」と気付いたフェルディナンド一世は、「ポンテ・ヴェッキォの上で営業するのは、宝石店のみ!」という決まりを作ります。
というわけで、現在も橋の上は宝飾店が軒を連ねているんです。
それもこれも、市民の生活の真ん中を、誰の目にも触れることなくメディチ家が歩き回っていたおかげ。
肉屋のまま放置していたら、河だってもっと汚れて、フィレンツェの衛生状態はもっと悪くなっていたかもしれません。
橋の真ん中あたりにだけ、↑こんなに大きなガラス窓があります。
メディチ家の人々は外から見られないよう、小さな丸窓だけを設置したはずだったのに・・・と思われる方もいらっしゃるでしょうね。
それもそのはず、これは後日、ヒットラー来訪に際して見晴らしをよくするために作り替えられた部分です。
ヒットラーもこの場所に立ってアルノ河を見たのか・・・複雑な気持ちです。
第二次世界大戦中、この橋以外はすべてドイツ軍によって爆撃を受けました。
しかしポンテ・ヴェッキォだけは、その美しさから爆撃をためらわれ、こうして今にその姿を残すことができたのです。
それは、ヒットラーがこの景色を見たことがあったからだ、と言う話を聞いたことがあります。
この景色を見て、美しいと思い、「あの橋だけは残すように」と命令したんだと。
私は詳しい歴史はわからないし、それが事実かどうかわかりませんが、ちょうどこの写真を撮った場所の下あたりに、この橋への爆撃を阻止したと言われるドイツ人領事Gerhard Wolf氏の石碑があるのは事実です。
橋を渡りきったこの地点で、回廊はカクカクっと、少し不自然な迂回をします。
これは代々橋の守をしていた名家「マネッリ家」の住居を迂回しているからです。
今でもこの石造りの古い塔は、ポンテ・ヴェッキォのすぐ脇にあります。
そこを通る時、私はつい「Bravo!!ブラーボ!」って言いたくなっちゃう。
なぜならヴァザーリの回廊計画が立てられた時、メディチ家に反抗できる者などフィレンツェには誰もいなかった。
それなのにマネッリ氏は「おのおのが、おのおのの家の主人である!」という名言を言い、回廊が彼らの家を突き抜けることを拒否したんです。
時の支配者であるコジモ一世からのお願いを、自らの家を守るという信念の元に断った、勇気あるNo。
支配者に屈服しないマネッリも、マネッリの意向を汲んで回廊を迂回させたコジモ一世の配慮にも、どちらにも拍手ものです。
ほら現代だって、「道路を作るので立ち退いてください!」「絶対立ち退くもんか!」みたいな争いってあるでしょう?
それをあの時代に、流血沙汰にもならずに迂回という方法で解決したんだとしたら・・・やはりこれは讃えられるべき迂回と言えるでしょう。
あー、また長くなっちゃった。
二回で終わらせるつもりだったんだけど、書き始めるとどんどん小ネタが出てきて長くなっちゃうんですよねー。
続きはまた次回!!
コメントをお書きください
sakuratanpopo (水曜日, 09 2月 2011 20:26)
とても興味深いです。大分前にフィレンツェに行った時、この回廊の事を旦那から聞きました。こちらを読んで益々私も中を通ってみたくなっちゃったなあ。(笑)
momoji (木曜日, 10 2月 2011 05:25)
年一回は一般公開しているんですかね。テレビではと・く・べ・つ・に公開♥とか勿体つけて言ってましたが(笑)さぞ支配者の気分が堪能できるのでしょうね。絵画も実物みたいです。時期を合わせて行くしかないですね。
いろいろな歴史をからめたレポートありがとうございます。また違った見方ができそうです。
coccoloblu (木曜日, 10 2月 2011 17:10)
sakuratanpopoさん、
初コメありがとうございます☆
ベネツィアからだったら電車ですぃーっと(笑)、是非見にきてください。
なかなか面白かったですよ~。
coccoloblu (木曜日, 10 2月 2011 17:17)
momojiさん、
通算してみると一年一回ペースくらいなのかなぁ?去年は公開されてなかったような気もするんですが・・・よくわかりません。
でもやっぱり普段は閉じられている場所だから、と・く・べ・つ感はちょっぴりありますよ(笑)
ただ公開時期の発表が、突然なんですよね~。
だから日本から時期を合わせて来るのは少し難しいかもしれません。
運試し、かな!?