イタリア文学の偉人、ダンテ。

答えは、この人でした。続きを読むをクリック!
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さすがにヒントが多かったかなw

 

前回のクイズ、「これは誰のお墓でしょう?」の答えは、ご存じ、イタリア文学の偉人、ダンテ・アリギエーリでした。

 

上の写真が、建物の中にある、ダンテのお墓。

 

イタリア好きでダンテを知らない人はほぼいないでしょう。

イタリアで最も知名度の高い本、『神曲』の作者です。

 

中世ルネッサンス期のフィレンツェに生を受けたダンテ。

詩人、哲学者として既に本も執筆していたダンテですが、不幸なことに政治的なゴタゴタでフィレンツェを追放されてしまいます。

 

以来、ダンテの哀しい放浪の旅が始まります。

そして、二度とフィレンツェに戻ることはできませんでした。

 

各地を転々とし、様々な場所を訪れたダンテが、最終的に亡くなったのは、北イタリアはヴェネツィアの近く、現在は世界遺産の都市として有名な、ここラヴェンナでした。

1321年9月13日のことです。

 

ダンテの生涯についてや、彼の書いた『神曲』については、ここではあまり触れません。

またいつか、触れる機会もあるでしょう。

 

 

これが、お墓がある建物の外観。
これが、お墓がある建物の外観。

そんな、追放の旅を経験したダンテですが、どうも死んでからも、落ち着いてゆっくり眠ってはいられなかったようです。

 

というのも、ダンテの死後、メディチ家率いるフィレンツェ市はダンテの骨の返還を要求してきます。

まぁ、勝手な話ですよね。

自分たちで追放しておいて、やっぱり偉大な詩人だから骨は返してくれだなんて。

 

で、当然ですがラヴェンナの人々はその要求を拒否しました。

しかし相手はメディチ家出身の、時の法王レオ10世。逆らうわけにもいかない。

いざ、メディチ家の使者が骨を受け取りにこのお墓までやってきた時・・・当時のラヴェンナの僧は決意しました。

「骨を盗もう!」と。

 

これはすごい決断です。あのメディチ家に空振りさせようっていうんですから。

で、お坊さんたちはダンテのお墓の裏側から穴を掘り(お墓の裏にはフランチェスコ教会があります)、その穴からダンテの骨を盗み出すことに成功!!

生前ダンテがよく通っていた教会でもある、フランチェスコ会修道院内にこっそりと安置しました。

 

ここまでは良かった、んですが、骨はその後19世紀に入ってから更にどこかに移動して・・・行方不明になりました(汗)

だから言ったでしょ、片付ける前にどこにしまうか言わなきゃダメだって!!という声が聞こえてきそうですww

 

その後しばらく骨の行方はわからないままでしたが(苦笑)、ちゃんと1865年に庭から見つかりました。ざっと半世紀くらい、行方不明だったってことですかねぇ。

 

防空壕!?
防空壕!?

骨の放浪は、これだけでは済みませんでした(まだかよっ)。

 

お墓の隣に、ツタに覆われた古墳のような土の盛り上がりがあり、そこに白いプレートが掛かっていました。

よく見たら・・・1944/3/23から1945/12/19という日付と、その期間はダンテの骨はここで安全に眠ってましたという表記が。

 なるほど、どうも戦時中は爆撃を避けるために、ダンテの骨は本来のお墓を離れて、この古墳(?)の中に安置されていたようです。

いわゆる、防空壕ですね。

 

戦争が終わり、ようやく、もともとのお墓である現在の場所に戻ってきた、というわけ。

はぁ、死んでからも旅の多い人です(笑)

 

今でもフィレンツェと関わってることは、これ。
今でもフィレンツェと関わってることは、これ。

お墓内部の天井からランプがつり下がってますが、このランプ用の油は今でもフィレンツェから届けられてるんだとか。

せめてもの、罪滅ぼしでしょうかねぇ。

あるいは、「ダンテは俺たちのもんだっ」という意思表示でしょうかw

 

ちなみに、フィレンツェにもダンテのお墓はあります。

有名人のお墓がいっぱいの、サンタクローチェ教会内部です。

が、もちろん中身は空っぽ。

ラヴェンナから骨を返してもらうことができたらそこに入れる予定だったようですが、ちょっと自分勝手が過ぎましたね。

 

今ではここラヴェンナで、静かに眠るダンテ。

旅多き人だった彼にも、永遠の安らぎあれ。